強い人たちは、現実に向き合い、情報の共有を試み、遠い人の気持ちを懸命に想像し、自分に歯痒さを感じた。

弱い人たちは、自分と、自分と近しい人だけを守るために、次々と攻撃の矛先を変えた。入ってくる情報を制限した。自分を正当化するための理屈を捻り出すことだけに、心を砕いた。

弱い人が弱いのは、たぶん本人のせいじゃないから、そのことを責めてはいけないんだろうと思う。いろんな現象を目の当たりにして、人間の素晴らしさも恐ろしさも垣間みた2年間だった。

たまたま私は、物心ついた時から"祈り" の唱和と接してた。
あの頃、両親はカンボジア難民の支援活動をしていた。ポル・ポト政権下の話を聞いてとても怖かった。煮え湯に突き落とされるような人生がこの世にはあると知ってショックだった。耳ざわりが良いだけの言葉に、懐疑的になる癖がついた。

”祈り”という行為は「自分には為す術の無い現実」に対して、人間が捧げずにはおれないものなんだと思う。逆に言うと「為すべきことがある間は、祈りに逃げてはいけない」ということでもあると思う。


primolevi3
...そして、現実を冷徹に見つめた作家の言葉が何度も思い返される